666 −赤−

 世界が赤く染まっていた。

 

 地平線の彼方に沈もうとしている太陽は、人も草木も建物も、何もかもを一色に染め上げていた。

 茜というには黄の足りない、緋に近い赤。苛烈な色に目眩がしてシオンはきつく目を閉じる。しかしその色は閉じた目蓋の向こうからでも情け容赦なく侵食してきて、彼女は自身の手の平を使って二重に遮った。

 そこまでしてやっと色は落ち着き、暗くなった世界で安堵の息を吐く。

 ――赤は苦手だった。嫌悪するまでではないけれども、苦手だった。

 それは彼女の記憶の奥底に沈む嫌なビジョンを思い浮かばせるから。(大切な人達はいつだって、その色に染まって体温を失っていった。)

 普通の夕焼けであればまだ問題はなかったのに。どうしてこんな日に外に出てしまったのだろう。どうしてこの色に気付く前に家に帰ってしまわなかったのだろう。

 いつもよりも濃い赤はことさらに、悲しい記憶を揺さぶっていく。その度に募る後悔。

 気付いてしまって目が離せなくなって、このままではいけないとなんとか目を閉じて塞いだものの、足はとうに動かなくなって逃げられない。

 ずるずると座り込んだ瞬間香った草の匂いに、理由もなく胸が締め付けられて涙が出そうになった。

 あぁ早く。日よ完全に沈んでしまえ。動かなくなった身体に内心で怨嗟の言葉を吐きながら、ひたすらに時が過ぎるのを願う。

 そんなシオンの耳に、さくり、と草を踏み分ける音が届いた。

「――何してんだよ? こんな所で」

 背後から聞こえた少年の声に、びくりと肩が震える。

 さくさくと足音が、人の気配が前方へ回り込んだのを感じた。

「ど、どうしたんだ!?」

 目を覆い、俯いている姿に気付いたのだろう。慌てた声が頭上から降ってくる。

 ふわりと気配が近付いて、温かな手が頬に添えられた。

「……Jr.君……」

 優しい仕草で目を覆っていた手を外される。心配そうにこちらを覗き込む青い瞳と目が合った。

(――赤い髪……。)

 目の前に、より鮮烈な赤があった。

 Jr.の髪の色。世界と同じように赤の光に照らされながらも、決して染まる事のない色。

「シオン? どっか具合悪いのか?」

 呆然と――Jr.にはそう見えた――したままのシオンに彼の表情が曇る。その声にようやく彼女の思考回路が正常に動き出した。

「う、ううん。もう、大丈夫――」

 ぎこちないながらも笑みを浮かべる。あれだけ動かなかった身体も、すっかり自由を取り戻していた。

「Jr.君が来てくれて良かった。……有難う」

「いや、別に礼なんて――」

 立ち上がるシオンに手を貸しながら、真正面から向けられた彼女の淡い笑みにJr.の顔が熱を持つ。

 とはいえ今は夕暮れ時。顔は元から赤く照らされていて、その変化に彼女が気付く事はなかった。

 

 

「でも、どうしたんだ? あんな所に座り込んでて」

 帰ろう、とどちらが言った訳ではないけれど、2人が自然と並んで歩き出したすぐ後の事。隣を歩くシオンを見上げてJr.がそう訊いた。

 彼にとっては何気ない言葉だった。しかしシオンはその問いかけに一瞬言葉を詰まらせて、僅かな沈黙の後に口を開いた。

「――夕焼けが、」 

 静かな声がJr.の耳に届く。彼女は一度小さく息を吸って、言葉を続けた。

「今日の夕日、凄いでしょう? いつもより赤が濃くて……」

「あぁ、そうだな」

「それを見たら動けなくなっちゃって。――私ね、赤って苦手なの」

 ほんの少しだけだけど。シオンはそう付け加えたが、彼女の口調と憂いた表情が決して少しだけではないのだと雄弁に語っていて、Jr.は一瞬呼吸をする事を忘れてしまった。

 赤。自分の髪の色でもある。自分そのものだと名指して言われたのではないけれど、それでも彼女の言葉は己にショックを与えるには充分だった。

「そ、そう、か……」

 なんとかそれだけ吐き出す。歩みが遅くなって、少しだけ距離が空いた。

「……でもね、さっき改めて思ったんだけど」

 シオンの口調が変わった。心持ち明るいものに。

 見えるのは背中ばかりでその表情は分からなかったけれど、なんとなく、彼女は笑っているのではないかとJr.は思った。

 数歩先を歩きながら、当たり前の事を言うようにシオンは続ける。

「Jr.君の髪の色は別みたい」

 世界が群青色に変わりつつある中、残った朱の光に照らされながら、ゆっくりとした動作でシオンが振り返った。

「私、Jr.君の髪の色、好きよ」

 穏やかな微笑を湛えて、彼女はJr.の髪先をすくうように撫でた。

 思わずJr.の足が止まる。そんな彼を残してシオンの指先は離れていった。

 なんという不意打ちだろう。沈んでいた気持ちも何もかもがその瞬間に吹き飛んで。

 

 ――世界が完全に夜の闇に閉ざされてもなお、Jr.の顔には陽の名残が残っていた。