667 −白−

 目を開けて、そこに一面の白が広がっていても、シオンはさして驚きはしなかったし、違和感も感じなかった。

(だって、これは夢。)

 そう認識していたからこそ、彼女はこの状況を当たり前の事のように受け入れている。

 地も空も何もない。ただ白があるだけの空間。今シオンが立っている場所も、彼女がただそこに“立っている”と意識しているだけであって、確固たる足場としてある訳ではない。彼女の意識一つで支えはなくなって、どこまでも落ちていくだろう。

 この白い世界で、彼女の存在は異質だった。唯一の他の色。ぽつんと存在する自分はまるで染みのようだと考えて、シオンは眉間に皺を寄せる。自分は異分子で、この世界から排除されてもおかしくない存在。その事実にどうしようもない心細さと不安を感じて、彼女は己の身を守るように自身の身体を抱き締めた。

 圧倒的な白。何にでも染まり易い色のはずなのに、ここでは他者を飲み込む絶対者となっていた。この白は、何もかも――自分さえも――塗り潰し征服していく色だ。

 彼女はこの世界の染みである自分を嫌だと思ったが、かと言って塗り潰され同化してしまう事には恐怖を感じていた。そうなってしまえばきっと、楽になれるのだろうと頭の隅で理解している。けれどもシオンの中にある理性がそれに恐怖を感じ、頑なに拒んでいた。塗り潰された先に、待っているものが、怖い――。

 

 音も何もない世界。僅かな心音さえも大きく響いてしまうような静寂の中で、不意に、それを破る音が聞こえた。

「よお」

 耳に心地好いバリトン。のろのろと視線を向ければ、いつから存在していたのか、白い男が立っていた。

 黒髪のデュランダルの代表理事に声も顔の造作もそっくり同じ男――アルベド。ただ彼はその名の通りの白い髪で、瞳の色が紫であるという違いがあった。

 でも、とシオンは思う。自分はきっと、彼らを間違えたりはしないだろう。髪や目の色が違うからではない。例え同じ色をしていたとしても、彼ら一人一人の浮かべる表情、雰囲気、声のトーン、立ち居振る舞いなど、それらは全く異なっているからだ。彼らはそれぞれ別個の人間で中身も全く違っているのだから、滲み出てくるものも当然違う。

 そしてアルベドは、いつだって不敵で皮肉げな表情をしていた。勿論、今も。

「――こんばんは」

 アルベドの視線は真っ直ぐシオンを捉えていて、だから声は間違いなく自分にかけられたものだろう。そう判断して挨拶を返す。

 昼のように明るいこの世界で夜の挨拶は不似合いに思ったが、寝ている今は夜なのだからきっとこれで合っている。

 シオンは驚いていなかった。むしろ少し安心してさえもいた。この空間で一人ではないという事が、心細さと不安を拭い去っていた。ただ少し不思議なのは、どうして現れたのが彼なのだろうという点だけ。

 奇妙に凪いだ気持ちでシオンはアルベドを見る。彼は大分と背の高い方で、本来なら見上げなければならないような位置に顔があったはずだが、今は必要なかった。

 アルベドは、シオンと天地を逆しまとして立っていた。丁度彼女の目線の先に頭がある。しかし、これは夢。なんらおかしい事はない。アルベドにとっての地が、シオンとは違っていた。ただそれだけの事。

 男が歩き出した。逆さまの顔が近付いてくる。1メートルも離れていない距離まで来て、それでもシオンに警戒心はない。彼女には、この世界で彼が自分を害する事はないと分かっていた。

「どうして私の夢に出てくるの?」

「違うな。お前が俺の夢に出てきてるんだ」

 明日の天気を聞くように、疑問に思った事をぶつけてみる。答えはすぐに返ってきた。しかしそれはシオンにとって意外な事で、首を傾げて考え込む。

(これは私の夢だと思っていたけど、違うのかしら。)

 目を細め、口角を上げて笑むアルベドは、面白そうにこちらを見ていた。その様子を見ている内に、段々とアルベドの言葉が真実のように思えてくる。

 確かにアルベドはこの真白の世界の中で、同じ色だというのに全く混じりもせず、己こそがこの空間の主だというように確固たる存在としてあった。

 だから、(そうか、)とシオンは納得した。ここが彼の夢の中ならば、確かに紛れ込んだ自分は異分子以外の何者でもない。ここに存在した時から感じていた“己が異質である”という意識も正しいものだったのだ。

「質問を返すぞ。何故、ここに来た?」

「さぁ、知らないわ。気が付いたらここに居たんだもの」

 返す答えが分からなくて、シオンは困って眉尻を下げた。しかしアルベドは彼女の返答に怒るでもなく、ただ「そうか」と言ってくつくつと、本当におかしそうに笑った。愉快で堪らないといった表情。

「本当に面白いな、お前は。……シオン」

 気が付けば同じ位置に立っていた。逆さまでなくなった彼の顔を見上げる。

 そして、アルベドが、シオンの名を呼んだ。

 記憶する限り、初めて呼ばれた名前に、まさか呼ばれるとは思っていなかった彼女は驚いて、零れそうなほどに大きく目を見開いた。心が震える。

 そんなシオンを、やはりアルベドは愉快そうに見下ろしていた。けれども彼女の中で驚きが去らない内に彼の笑みは消える。

 打って変わって鋭い眼光を向けるものの、その中に微かな哀しみが見えたのは――シオンの気の所為だろうか?

「――もう、帰れ。そして二度とここには来るな」

 大きな手が伸びてくる。手の平に赤く刻まれた数字が見え、やがて視界を覆われて何も見えなくなった。

 ごつごつとした、ひんやりと冷たい男の手。

「もし、またここに来るような事があったら……その時は、逃がさない」

 吐息と共に耳元で囁かれた言葉は、獰猛さと甘い毒を含んでいて、それを最後にシオンの意識は現実へと還っていく。

 覚醒が近付くと共に夢の記憶はほろほろと崩れていって、目覚めた彼女は夢見た事さえ忘れていた。