デスクに積まれていた電子書類も大分と片付いて、一段落つきそうだと気付いたガイナンは、書類の上に走らせていた視線を上げてそっと息を吐いた。
意識が現実へと引き戻されて同時に身体が疲労を訴え始める。
全身の筋肉が固まって、動かせばごきごきと音がしそうだ。
同じく書類の処理をしていた己の兄弟の方はどうなのだろう、と視線を向ければ、赤い髪の少年は眉間に皺を寄せながらまだ書類と格闘しているようだった。
いつもは快活な表情も曇っていて、「ちっくしょう、やってもやっても……!」などとぶつくさ文句も聞こえてくる。
しかし、文句を言いながらも書類は次々処理されていっているので、あれはあれで集中しているらしい。ガイナンは少し笑った。
ともあれ、様子を見る限り、兄弟の仕事はまだ終わりそうもない。
「Jr.」
「――ん? ガイナン、お前もう終わったのか!?」
顔を上げたJr.が驚いた表情になる。かけられた声に、ガイナンは首を振った。
「いや。だが、一段落ついた。……気分転換に外でも歩いてこようと思ってな」
「だったらちょっとはこっちも手伝って――」
「それはお前のノルマだろう? 悪いが一人で頑張ってくれ」
Jr.の頼みに口の端を上げた笑みを返して、ガイナンは悠々とした足取りで外へと出ていく。
薄情者!と叫んだ少年独特の高い声は、背後で閉まったドアに隔たれ消えた。
※
兄弟からの念話もシャットアウトしてデュランダル内を歩いてきたガイナンに、これといった目的地などなかった。ただ足の向くままに歩いて――だから、その部屋の前まで来てしまった事に気付いた時は驚いて、苦笑してしまった。
シオン・ウヅキ
デュランダル滞在中の、ヴェクターの若き開発主任である彼女に貸し与えた部屋。
今、彼女はこの中にいるのだろうか。
普段からKOS-MOSの調整に拘っている事が多いと聞いた。いない確率のほうが高いように思ったが……。
「――ウヅキさん?」
ガイナンはドアをノックしていた。
いなければいないで良かった。用事があった訳じゃない。ただ、その顔を見て、何でも良い、他愛のない話でも出来れば、それで良くて――。
(本当に?)
囁く声を無視してもう一度ドアを叩く。
応えはなかった。
「……いないのか」
落胆と安堵と、どちらの方が大きかっただろうか。正反対の感情が同じくらい心を占めて複雑な気持ちになる。
そんな感情全てを押し殺し、いないのならこのまま立っていても仕方がないとその場を立ち去ろうとして、
――シュンッ
小さく聞こえた音に振り向いた。
ドアが開いている。――迷いは一瞬だった。
ガイナンは部屋の中へと足を踏み入れた。
そして、視線を巡らすまでもなくすぐに気付く。
備え付けのテーブルにうつ伏せになっているシオンの姿に。
ぐったりとしているようにも見える姿に、もしや彼女の身に何かあったのかと僅かに息を呑んだ。すぐさま傍に歩み寄る。だが、それは杞憂だったようで、緩やかに上下する肩とすぅすぅと微かに聞こえた寝息に安堵した。
室内に敷かれた絨毯が柔らかく彼の足を支え、音を消す。お陰で彼女が起きる気配はない。
ガイナンは改めて目の前で眠るシオンを眺めた。
柔らかな赤茶の髪はテーブルの上に広がり、自らの腕を枕にしたその顔は実年齢よりも少し幼く見える。
無意識に手が伸び、指先が彼女の頬に触れる――前に、動きが止まった。
触れれば、その瞬間に彼女は目覚めるだろう。
(何故なら貴女は、彼以外の人間が直接触れる事に酷く敏感だから。)
その碧の瞳に自分を映して欲しい気持ちはある。けれども、今の、無防備な彼女を見ていたい気持ちも確かにあった。目覚めた彼女は、こんな風な顔を見せてはくれない。
そんな想いが彼の動きを止めた。指先はシオンより僅かな距離を取って彷徨う。
あぁ。それとも。
眠る彼女にキスをして、目覚めさせたら。
彼女は、自分を見てくれるだろうか?
古い古いお伽噺のように。
そんな事はありえないと、苦笑で持って打ち消して。
指先はついぞ彼女に触れる事なく離れていく。
代わりに、スーツの上を脱いで彼女の肩にそっとかけた。
身じろきした彼女の口が紡いだ名は彼のもの。
微かな胸の痛みを皮肉げに笑む事で誤魔化して、ガイナンは静かに部屋を後にした。
――あと1センチの距離。たったそれだけがとても遠かった。