キスと涙と夏の嘘

「――シオン?」

 気付いた時、共にダイブしたはずの彼女の姿はなかった。

 見えるのは白く金属の輝きを放つ壁。左右に延びている通路。

 ここはエンセフェロンにて構築されたヴォークリンデ。シオン達が乗っていたという、グノーシスによって轟沈した、今はもうない艦。

 周囲に人の気配はない。そう、自分以外は何も。それが問題だった。何故なら、彼は彼女と二人でここにダイブしたのだから――!

「どこだ!? どこにいる!? シオン――!」

 一体何が起こったのか。彼女の身は無事なのか。しんとした空気。耳に痛いほどの静寂に不安が襲いかかってくる。

 ぞっとする予感を無理やり締め出し、Jr.は駆け出した。

 必死な叫びと靴音だけが、静かな艦内に響いた――。

 

 

 夏も近いからだろう。今日は気温が高く、少し動いただけでも汗ばむくらいだった。

 だが、それも外にいればの話で、空調整備のされた室内は涼しい。

 一人歩いていたJr.は、通路の向こうから見知った姿が歩いてくるのに気付いて、笑みを浮かべた。

「シオン!」

「あら、Jr.君じゃない」

 こちらに気付いたシオンが柔らかく微笑む。

 二人の距離は縮まって、彼女の目の前に立ったJr.は「よぉ」と片手を上げた。

 相手の顔を見上げながらJr.は小さな疑問を口にする。

「どうしたんだよ、その花?」

「ちょっと、ね。――綺麗でしょう?」

 シオンが両手に抱えていた黄色い花束。

 小さな花弁にそっと口付ける彼女の顔はとても綺麗で、左胸の鼓動が一際高くなった。

 同時に、そんな小さな花でさえ羨ましいと思う自分がいて、相変わらず彼女に関しては余裕がないなと苦笑する。

「部屋に飾るのか?」

 何気なく口にした言葉に、シオンの表情が微かに曇った。

「ううん。そういう訳じゃ、ないんだけど――」

 伏せられた瞳には確かに陰りの色が見えて、Jr.は眉を顰める。

「じゃあ、誰かに、贈るとか?」

「……手向けの花、かな。自己満足――なんだけどね」

 Jr.が重ねて問いかけると、シオンは小さな溜息と共にそう答える。

 彼女は悲しみと悔恨がない交ぜになった瞳で、ここではないどこか遠くを見詰めていた。

 

 巡洋艦ヴォークリンデ。かつて自分が乗った艦。

 短い期間ではあったが、シオンはそこで多くの人と出会った。様々な交流があった。

 しかしそれも、あっという間に崩れてしまった。

 グノーシスの襲撃――巨大な戦艦はものの数時間で宇宙の藻屑と化した。

 人も、レアリエンも、多くの命が失われた。自分を守ろうとして目の前で死んでいった者もいる。

 そう、自分が名を呼んだ彼も――。

「私に、そんな資格なんかないって分かってる。それにヴォークリンデも……」

 花を手向ける場所はすでになく、遠い遠い宇宙にその残骸が漂うだけだ。

 シオンは考えて、エンセフェロンを思い立った。あれならば、ヴォークリンデを再構築する事が出来る。例え虚構の空間であっても、遠く関係のない場所で花を手向けるよりよっぽど相応しい気がした。

 そう話し、これから一人でダイブするつもりらしいシオンに、Jr.の眉間に皺が寄った。

 一人で行きたい気持ちは分かるが、エンセフェロンは不安定な空間でもある。

 もし、何かあったら? 可能性は低いとはいえ、心配だった。

「……俺も行く」

「ジュ、Jr.君!?」

「シオンは慣れてるだろうけど、元々エンセフェロンは不安定な空間なんだ。何かあったらどうすんだよ。――邪魔は、しないから」

 躊躇うシオンの目を見据え、真摯に言い募る。

 結局Jr.は頑として譲らず、根負けした彼女は彼の同行を了承した。

 ――そして。

 準備も完了し、いざアクセスポイントからダイブを決行した瞬間、視界がぼやけた。普段のダイブとは違った感覚に嫌な予感がして、Jr.はシオンの名を呼んだ。

 けれども全ては遅く、気付いた時、隣にシオンの姿はなかった。

 

 

 走る。シオンの名を呼び、目は懸命にその姿を探して、Jr.は広い艦内をひた走る。

 けれども彼女の姿はどこにも見えず、声も返ってはこない。

 立ち止まれば、名を呼ぶのを止めてしまえば、その瞬間不安に押し潰されて動けなくなってしまいそうで、Jr.は止まる事なく走り続けていた。だが

「……なん、だ……?」

 足を止める。通路の先に短い金髪の男が立っていた。

(人間――じゃねぇ。戦闘用レアリエンか?)

 何の感情も浮かばない瞳は金色。ライフルを携えた姿形からそう判断する。

 ――これも、シオンの記憶が再現されたものなのだろうか。

 ホログラムのように透けているその姿。頼りない幻は、しかし、しっかりとJr.を見ていた。

 間違いなく、あれはこちらを認識している。

 不可解な現象に戸惑うJr.の前で、レアリエンの口が動いた。

『――――』

「シオン、だって……?」

 音は音として伝わってこなかった。けれども唇の動きから相手が何を言ったのかは理解出来た。

(でも、どうして彼女の名前が?)

 混乱するJr.を一瞥して、レアリエンは踵を返し駆け出した。まるでJr.を先導するかのように。

「お、おい!」

 突然の行動に思わず制止の声を上げる。しかし相手は止まらない。

 一瞬の逡巡。Jr.はレアリエンを追って走り出した。

 向かうその先にシオンがいると確信しながら。

 

 

 半透明な背中を追い駆ける。響く靴音は一人分だけ。前を行く幻に音はない。

 距離は一定。Jr.がいくら速度を上げようとも、それ以上近付く事も、離れる事もなかった。

 あるいは悪夢のようにも思える追走劇は、4度目の角を曲がった時、終わりを告げた。

 そこには捜し求めていたシオンの姿。

 意識を失っているのか、花を抱えて彼女は倒れていた。赤茶の髪が無機質な床の上に広がっている。

 そして、そんな彼女の側にいたのは紛れもないグノーシス――!

(そんな馬鹿な! ターゲットドローンの設定なんてしてねぇのに!?)

 驚愕するJr.だが、今シオンに迫っている脅威は幻影ではなく現実だった。

 グノーシスは意識のない彼女に向かってその手を振り上げ――

「シオン――!」

 響く銃声。その手が振り下ろされる前に、体に幾つもの銃弾を受けてグノーシスは霧散した。

 撃ったのは……Jr.では、ない。

 Jr.が引き金を引く前に、金髪のレアリエンが行動を起こしていた。

 ライフルを構えたままのレアリエンの脇を通り抜け、Jr.はシオンの元へ駆け寄る。

「シオン――シオン! 大丈夫か!?」

 抱き起こして軽く身体を揺さぶると、小さく彼女の睫毛が震えた。

「……ん……じゅにあ、くん……?」

 目の焦点がゆっくりと合わさる。

 まだ意識がはっきりしないのか、ぼんやりとした声でシオンは視界に映った相手の名を呼んだ。

 意識も問題なく、怪我らしい怪我もしていない様子にJr.は胸を撫で下ろす。彼女が無事でいた事が、泣きたくなるほど嬉しかった。

 そのまま抱き締めそうになる衝動を抑えて、彼女を支え立ち上がろうとしたその時、

『良かった――』

 シオンにとっては懐かしい、Jr.にとっては聞き覚えのない、声が響いた。

 いつの間にか二人の前に立っていた姿に、シオンの目が見開かれる。

「あな、た、は……」

『今度こそ、貴女を守れた』

「……ア、レックス……?」

 空気を震わさず、声は直接脳裏に届く。

 いつか名を呼び、言葉を交わして――そして目の前で死んでしまった彼。

 はっきりとした姿を持たないレアリエンは、虚構ではない現実として、シオンを見詰めていた。

『私は、貴女を守れた自分を誇りに思います』

 感情制御を受けているはずの戦闘用レアリエンは、しかし、その時確かに誇らしげに微笑んだのだ。

 伝えたい事があったのに、言葉にする事が出来ない。目の前の奇跡のような出来事に、彼の微笑みに、胸がいっぱいになって、シオンの目に涙が浮かぶ。

 頬を伝う雫を拭うように、実体のない指先が添えられた。けれども涙を拭う事は出来ないまま指先は頬を滑っていく。

 そうして、

『――シオンさん。私は貴女が    』

 まるで、空気に溶けるように――。

 声は最後まで届かず、唇の動きだけを残して幻影は消えた。

 残されたのは座り込んだシオンと、その傍らに立ち尽くすJr.だけ。

「……ねぇ、Jr.君……今の、幻なんかじゃないわよね……?」

「幻さ。でも、俺にも見えてた。――はぐれたシオンに会えたのだって、あいつを追って来たからだしな」

「……そっか……。Jr.君にも、見えて――」

 震える声に、Jr.はシオンが泣くのではないかと思ったが、彼女はそれ以上泣きはしなかった。

 頬に残った跡だけ拭い、立ち上がる。

 何かを思うように――祈るように――僅かの間目を閉じる。

 目を開いたシオンは、静かな口調で問いかけた。

「Jr.君。アレックス――彼が、最後に何て言ったのか、聞こえた?」

「――いいや。途中までしか、聞こえなかった」

「……そう……」

 Jr.の答えに吐息のように呟いて。

 シオンは幻の消えた場所をいつまでも見詰めていた。

 

 

 ――当初の目的通り、花束はエンセフェロン内に残された。

 シオンと共にダイブアウトをする寸前。歪んでいくヴォークリンデの中で一際目に付く黄色い花弁に、Jr.はあの金髪のレアリエンを思い浮かべる。

(幻とはいえ、あんたが羨ましいよ。)

 本当はあの時、分かっていた。

 最後まで伝わらなかった言葉。音は届かなくても、唇の動きからJr.には分かっていたのだ。彼の言葉が。

「好きです、か……」

 いくら想っても自分には伝える勇気のない言葉。

 それを言葉に出来た相手が羨ましい。そして、知っていながら口をつぐんでしまった己の卑怯さ加減に自分自身辟易しながら、Jr.は現実空間へと戻っていった。