「……ん……」
目を開けた時、シオンは自分がどこにいるのか、何をしていたのか、すぐには把握出来なかった。
「……わ、たし……? ――あっ」
テーブルの上に転がっていた端末を見て、KOS-MOSのデータの整理をしていた途中だった事を思い出す。
「やだ、私ったらいつの間に寝て――」
一体どれだけ寝てしまっていたのか。慌てて立ち上がって、
――パサ
「え?」
聞こえた音に振り返る。
音のした方……足元に視線をやれば、そこに黒い何かが落ちていた。
「これは……」
拾い上げると上着である事が分かった。
品の良いスーツ。見覚えがあるような……。
「――ガイナンさん?」
脳裏にかの代表理事の姿が浮かび、名前が口からついて出る。
手の中にあるそれは、いつも悠然とした態度を崩さない彼の着ている物と似ていた。
恐らく、スーツの持ち主は彼だろう。
しかしシオンには彼と会った記憶も何もない。
つまり、寝ている間に彼がこの部屋を訪れ、起きない自分の肩に上着をかけていったと――?
「……!」
想像した途端、顔が赤く染まっていった。
シオンだって若い女性なのだ。妙齢の男性に寝顔を見られたとなれば羞恥心も覚える。
不快感はなかったが、ただただ恥ずかしかった。
(ロックをかけておけば良かった……。)
寝るつもりがなかったのだから当然ロックもかけていなくて。
自分の迂闊さに後悔しながら、とりあえずこれは返さなくてはと思う。
しかし、代表理事という立場にいる相手――赤髪の少年はともかく――にそう簡単に会えるのかと疑問もあった。
そして何より、このスーツの持ち主が本当に彼であるかどうか。
恐らく彼の物であるだろうとは思うが、確定出来るほどの根拠はない。
かと言って本人に確かめるには――
「……あ、そうか。Jr.君に聞けば分かるかも」
ガイナンに近い彼なら、分かるかもしれない。
シオンはスーツを手にJr.の元に向かった。
※
「――Jr.君! いる?」
かの少年の部屋の前でドアをノックする事数度。
少し声のトーンを上げて少年の名を呼ぶと、しばらくして応えがあった。
「……なんだよ……って、その声、シオンか!?」
些か不機嫌そうな声は、すぐに驚いたものに変わる。
ガタガタと賑やかな音が聞こえた後、シュンッと目の前のドアが開いた。
「シオン!」
「Jr.君。ごめんね、もしかして……寝てた?」
半ば飛び出すようにして出てきた少年は、いつもの見慣れたコートを着ておらず、ラフな格好をしている。赤い髪が少し跳ねていた。
「ちょっと横になってただけで、寝てた訳じゃ――」
ない。カラッと笑って続けようとした声が途切れる。
シオンの手が伸ばされ、指先が、彼の髪を梳いていったから。
息と共に言葉が飲み込まれ、Jr.は瞬時に顔に熱が集まったのを感じた。
けれども彼女にとってその行動が特に意識されたものではないというのは表情を見れば明らかで、その事にきり、と胸が痛む。
そんな己の動揺を悟られないよう、Jr.はいつもの笑みを浮かべた。
「で、どうしたんだよ?」
「あぁ、うん。ちょっと見て欲しい物があって」
言いながらシオンは片腕に抱えていた上着を差し出した。Jr.は相手の意図が掴めず眉を顰める。
しかしそれも一瞬。見覚えのある黒に一人の男の姿が脳裏に浮かんだ。
「それ……ガイナンのか?」
「あ、やっぱりそうなんだ。起きたらこれがかけられてて」
「――起き、たら?」
声が強張った。
シオンの言葉から状況を想像し、胸の内に生まれたほの暗い感情。兄弟へと向けられたそれは、押さえようにも押さえ切れない厄介なものだった。
――自分には、そんな事を思う資格も何もありはしないのに。
Jr.は自嘲する。そうして、せめてガイナンにこの感情が伝わらぬよう、意識領域の防壁を強めた。
「ガイナンさんのじゃないかって思ってたんだけど、確信が持てなくて。だからJr.君に聞きに来たの。――やっぱり彼の物だったのね」
一方のシオンは、Jr.の葛藤など知らぬまま、ただ持ち主がはっきりした事に喜び、笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「Jr.君、この上着ガイナンさんに返したいんだけど――」
「あぁ、それだったら、」
シオンが次の言葉を発する前にそう返したのは、半ば反射的なものだった。
きょとんと目を瞬かせるシオンに笑いかけ、Jr.は続ける。
「あいつも忙しいみたいだからさ、俺から返しといてやるよ。シオンだってKOS-MOSの調整とか、色々あるだろ?」
自然な口調で話せた事に安堵しつつ、相手の様子を伺う。シオンは少し考えるような素振りを見せた後、「そうね」と頷いた。
「それじゃあ、悪いけどお願い出来るかな」
「あぁ。任せとけって」
Jr.がスーツを受け取ると「有難う」とシオンは微笑む。
「返す時に一緒にお礼も伝えてね」
そう付け加えて、「宜しくね」と彼女は踵を返した。
そうしてそのまま立ち去ろうとした、その時、
「――シオン!」
名を呼ばれると同時に腕を掴まれた。
「な、なに……? Jr.君……」
力の強さに驚き、振り返った先には、自分を見上げるJr.の眼差し。
その強さに呑まれそうになりながらも、なんとか声を絞り出す。
しかし、Jr.は腕を掴んだきり何も言わない。一瞬、苦しげに眉を寄せ、口元が歪んだが、やがて、
「――いや、なんでもねぇ」
視線を逸らして腕を離した。
実際には5秒も経っていない沈黙。けれども、それはとても長い時間であったようにシオンは感じた。
「そ、そう? ――じゃあ、ね」
解放されたシオンは早口でそれだけを言うとそそくさと部屋を出る。
後ろを振り返る事はせず――出来ず――彼女は廊下を早足で歩いていく。
けれども、Jr.のいた部屋から距離が離れていくと、段々とその速度も落ちていき……やがて、止まった。
キスを……されるのかと思った。
射抜くような強い眼差し。
あの時自分の腕を掴んだ少年の目は、子供じゃない、“男”の目をしていた……そんな風に感じた。
(馬鹿ね。そんな事ある訳ないじゃない。)
だが、すぐにシオンは頭を振って否定する。
(そうよ。だってJr.君は子供……だもの。)
だから、それはただの勘違い。
そうして彼女は気付かないフリをする。心に蓋をする。無意識の内に。
「……KOS-MOSの、調整しなきゃ」
己に言い聞かせるように呟き、歩き出す。
シオンは調整室へ向かいながら自らの腕に手を添えた。
先ほどJr.に掴まれた腕の跡。
そこだけが熱を持っているようだった。