メリット・デメリット

「ご、ごめんなさい、Jr.君」

 目の前にはしゅんと肩を落としたシオン。その目に後悔の色を滲ませてJr.の顔――正確に言うなら頬――を見ている。

 ひりひりとした痛みを伝えてくる頬は、鏡を見ればきっとまだ赤く腫れているに違いない。なにしろ思いっ切り引っ叩かれたのだ。しばらく腫れは引かないだろう。

「良いって。そんなに気にすんなよ」

 相手があんまりにも気落ちしているものだから、平気だと、Jr.はからりと笑おうとした。が、その瞬間ぴりりと痛みが走って顔を顰めてしまう。すぐに何でもないフリをしようとしたけれど、彼女はこちらの顔をじっと見ていて表情の変化はばっちり捉えられていた。

「――まだ痛むのね?」

 誤魔化しが失敗してJr.の目が泳ぐ。

 顔を覗き込むようにして向けられるシオンの真剣な眼差しに、目を合わせれば違う意味で頬が赤くなりそうだった。

 不謹慎だとは思うが、シオンに心配されているという事は嬉しい。だって、今彼女の意識は自分だけに向けられている。彼女の思考は自分の事だけに占められている。その事実にJr.は確かに喜びを感じていた。

 でも、彼女の罪悪感に満ちた顔を見たくないのも本当だった。笑顔の似合う人だから、憂いた顔は見たくない。いつだって笑っていて欲しい。――どうすれば彼女は気に病む事なく笑ってくれるようになるだろうか?

「やっぱり冷やした方が良いわ、ちょっと待ってて!」

 けれどもJr.が答えを出す前に、シオンは走っていってしまった。止める間もなく彼女は部屋を出ていく。

 一人残されたJr.は仕方なく側にあったソファに座りシオンを待った。

 

 

 そもそも、何故このような状況になったのか?

 それはデュランダル及びエルザをあわや轟沈の危機に追いやったKOS-MOSの暴走事件が一応の収拾を見せた時だった。多くの者がほっと胸を撫で下ろしていたその時。アレンとJr.とシオンと、三者が揃ったところでそれは起きた。

 立ち去ろうとしたアレンの手から落ちた一枚のデータディスク――慌てる者と、何だろうと首を傾げる者の前で再生されたその中身は場にいた全員を凍らせるのに充分な内容だった。

 逸早く我に返ったのは当人であったシオンで、怒りと羞恥で逆上した彼女はその場にいた二人を引っ叩いた。それはもう思いっ切り。そして「最っ低!」と怒り心頭その場を去っていってしまったのである。完全に、Jr.も共犯者であると誤解して。

 状況を顧みれば彼女の心情も分からなくはない。気付かない内にあんな映像を撮られていて、しかもそれを他者に見られたのだから、手が出てしまったのも仕方がないと思える。(とりあえず、あの映像を撮った奴は見付け出してとっちめる事に決定。)

 しかし、アレンはともかくJr.はデータに関して全くの無関係で。なのに彼女には誤解されてしまった。

 それは拙いとJr.は慌てた。急いで彼女を捕まえて、冷たい視線に耐えながらもなんとか誤解を解く事に成功したのだった。そして冒頭へと至る。

 ちなみにアレンに対してはいまだ怒りが続行中のようで、けんもほろろな対応だ。

 今、Jr.だけがこうして許してもらって、なおかつ謝罪を受けているのは、あの映像データに関わっていなかったという事実と、彼女がJr.を見た目相応の子供と思っているからだろう。

 これで外見がガイナンのような大人だったら、こうも早くに彼女のわだかまりが解ける事はなかったと思う。誤解が解けたとしても見られたという羞恥心は残っていただろうから。

 そう考えると複雑な気持ちだった。シオンの態度が以前のように戻ってくれたのは嬉しいけれども、それは異性としてカウントされていない事を証明しているようなものだったから。

「どーせ俺はがきんちょだよ」

 はぁ。と深い溜息一つ吐いたところでタイミング良く聞こえたスライド音。

「待たせちゃってごめんね」

 隣に座るシオンの手には水の張った容器。溢さないようにテーブルの上に置くと、彼女は氷の浮いているそれにタオルを浸して絞った。

「Jr.君、こっち向いてくれる?」

 言われるままに顔を向けると、彼女の手が伸びてきて、冷たいタオルをそっと、ひりひりと痛む頬に宛がう。

「……ッ」

 息を飲んだのはタオルの冷たさにではない。

 タオル越しに添えられた手と、間近で揺れる碧の双眸。彼女の体温まで伝わってきそうな距離に、心臓が、いや細胞全部が賑やかに騒ぎ出してJr.は思わず身を引いた。

「あ、駄目よJr.君!」

 けれどもそれは許されず、空いたもう片方の手で引き寄せられて一層彼女との距離が近くなる結果になった。

「少し沁みるかもしれないけど、我慢して。ね?」

 小さな子供に言い聞かせるのと全く同じ口調で言われて自分が情けなくなる。

 シオンが傍にいて、声をかけてくれて、笑顔を向けてくれて、それだけでも幸せな気持ちになれるのに、彼女にとって自分は小さな子供でしかない。まだスタートラインにさえ立っていないのだ。

(なぁ、シオン。俺が見た目相応の年じゃないって知ったら、あんたもちょっとは意識してくれるかな。)

 いつかは何らかの形で彼女が真実を知る時がくるだろう。そしてそれは遠い未来の話ではない。そんな予感がする。

(――まぁ、でも。)

 冷たい態度を取られ半泣きになっていたアレンの姿を思い出して。

 とりあえずこのほとぼりが冷めるまでは、彼女に本当の事を知られないようにしよう、とJr.は思った。